尋ね人: 髙井文之進 の 縁者
亡き祖父が、生前、親族を探していたと回顧録で知り、30数年経過と遅蒔きながら、意志を継ぐ所存。
家紋、姓の由来も知らぬ由。
祖父の回顧録にて、高祖父までの名は判明。
- 四親等(高祖父)髙井文之進 ── 明治時代の神社宮司。(関東周辺)
- 三親等(曽祖父)髙井鉄三郎 ── 関東大震災により横浜で消息不明
- 二親等(祖父 1915年-1976年) ── 関東大震災により、8歳で天涯孤独
- 一親等(親父 1939年-)
- 捜索者(当人 1970年-)
髙井鉄三郎については、祖父の父ゆえ、さらに子細が記される。
髙井文之進の子であり、関東の出、代々神職の家系生まれ。
中村家の神社(山口県美祢?)に、取り子取り嫁として後継となったとある。
鉄三郎という名から、三男と推測。
長男が、本家神社の跡継ぎとなったであろう。
1915年(大正4年)、鉄三郎の妻は、第四子(祖父)の出産後、山口県宇部市にて落命。
当時、呉服屋だか料理屋を商っていたとあるが、何故、宇部市に居たか不明。
帝国主義の時代。強制改宗のための国家神道。その準備たる神社合祀令。
その影響により、跡を継いだ神社は、強制的に何処かに合祀され、職を失ったのでは?と推察。
また、当時の宇部は、炭鉱からの石炭を運ぶ鉄道が張り巡らされている全盛期。
職を求めて、県内転居と考えるのが妥当。
1923年(大正12年)、祖父は生まれてすぐ、宇部の知人に里子として預けられ助かった。
が、残る家族全員、関東大震災時、横浜に居て消息不明となる。
宇部は、炭鉱のためだけに、即興で出来たような街。
戦国時代、大内から毛利へ支配が移り、毛利は関ヶ原以降、外様大名ゆえ所有地も西側に縮小。
家臣共々生き残るため埋め立て開作を行い、宇部の瀬戸内側多くの土地も該当。
それ迄は海底ゆえ、歴史の表舞台には登場せずと。
祖父は、沖ノ山炭坑長屋、炭鉱夫 三島家の子として世話になり、幼い頃から働く。
小学生となり、所用で訪れた役場にて、他家の子である出自や実父母の死を知ることになった。
数十年後、姉である幸子の手掛かりを掴むが、群馬県前橋市の魚屋へ嫁ぎ、既に病死。
震災で、ひとり生き残った祖父の姉 幸子だったが、横浜あたりを1年かけ、父(鉄三郎)や家族を探したものの見つからず。その後、宇部の弟(祖父)を訪ね、頭を摩って、ラムネを飲ませてくれたらしい。
が、祖父は初対面で事情もわからず、姉もすぐ上京のため、祖父の記憶には留まらなかったのだ。
祖父は、石炭を運搬する会社を起業。現在も残る。会社という、大きな屋根さえあれば、家族や兄弟が仕事に困らず、皆で暮らせると考えてのことと記されている。
戦後の復興期、会社は大きくなったが、祖父の親族など血縁者は見つからず、1976年(昭和51年)、癌で亡くなる。享年61。此方 高井真一、まだ幼稚園に通っていた頃の話。
当世。祖父の回顧録をもとに再試行中。
今以て、髙井家(高井家)が代々宮司(先達)を務める神社は幾つか存在。
東京、八王子の住吉神社琴平神社合社(宮尾神社)は、童謡『夕焼け小焼け』の作詞者、中村雨紅(髙井宮吉)の実家だが、宮司に伺ったところ、名の付け方等から系譜は異なると判明。
もう一つ、東京にある、品川の三谷八幡神社(高井戸の由来)も訪れたが、系譜が異なると判明。
残る群馬、高崎神社や進雄神社も訪ねる予定。
髙井文之進の直系子孫の方など、何か情報があれば連絡を賜りたく、宜しくお願い申し上げ候。
髙井(高井) の 由来
前口上
此方 高井真一、生業は絵描きなれど、歴史・哲学・宗教学・民俗学などは、すべてに通ずる処あり、興味は尽きませぬ。ゆえに、髙井姓の由来も、同時に興味をもった次第。
訂正すべき誤り、或いは、ご意見、ご感想など御座いましたら、遠慮なく 打電 下さい。
漢字の環境
髙井姓(高井姓)は、関東では珍しい姓。源平の時代以前と思われるが、関東へ下った髙井姓は、辿ると大きく3系統。
そこから、高井城や高井村などがあり、さらにその地名をとった地名姓で残る。
地名では、東京の高井戸、長野の上高井郡などあるが、始まりの詳細は後述す。
高井城(平城含む)についてだけでも、知る限り4つ存在。相馬系譜のみ茨城県取手市下高井に城跡も現存。
先頃、高井城主子孫の方から連絡いただき、現在も「髙井」(はしごだか)であり、家紋は「違い矢」との事。大阪府貝塚市名越(和泉国)にあった城と推察されるが、天正13年 秀吉の根来(ねごろ)攻めの際、福島正則により落城。後、高井天神社(菅原神社)として祀られ、明治41年に合祀と記録が残る。
つまり、この事にまつわる記述に於いては「髙井」(はしごだか)が正式な表記となる。
「髙井」(はしごだか)、「高井」(くちだか)の違いだが、江戸期まで綿々と姓に使っていた家系は、明治維新後も「髙井」(はしごだか)のままと思われる。
明治維新直後は、苗字に関連する様々な法令が実施され、さらに活版印刷への移行期でもあった。
- 1870年(明治3年)9月19日 平民姓許可令。
- 1871年(明治4年)8月29日 廃藩置県。
- 1875年(明治8年)2月13日 平民姓必称義務令。
廃藩置県や国語改革で、由来に関わらず地名で使われる漢字は「高」(くちだか)で揃えられ、現在の地図や住所からは消えている。
推測の域ではあるが、戸籍に「高井」(くちだか)記載の家は、あくまでも地名由来の「地名姓」であり、昔から使っていようと、「平民姓必称義務令」からだろうと、住所の漢字変更にともない揃って「高井」(くちだか)での戸籍登録だろう。
一方の「髙井」(はしごだか)は、厄介。
「髙」(はしごだか)は、旧字体(古い漢字)と混同されがちだが、それは第二次世界大戦前後に行われた「国語改革」に於いて字体が簡素化された「当用漢字」や「簡易慣用字体」に対して使われる表現のため、二千年のタイムラグのある別物だ。
例えば、「当」の旧字体は「當」だが、古くから1949年までは公文書等で使われて、まさに近年の新字体と云える。昭和初期には、「當役場へ 相談へお出下さい」との張り紙が見受けられた。
他、「鐵」が「鉄」、「學」が「学」、「國」が「国」、「眞」が「真」、「澤」が「沢」、「櫻」が「桜」、「廣」が「広」、「邊」が「辺」、「濱」が「浜」など、名前に使われる漢字も含まれる。
「高」(くちだか)は、二千年以上前の大陸、秦の始皇帝の時代から既に存在、高低の形容詞などで使われてきたが、「髙」(はしごだか)は未だに残り続けている。
名詞利用での使い分けに規則性を見出すのは困難で、国内の石碑などは同一人物なのに揃っていない場合もある。一例、幕末から明治あたり。高杉晋作の墓標も、後年に幕末志士が集められた京都霊山護国神社、下関の桜山神社ではそのままだが、各地の記念碑では「髙杉晋作」(はしごだか)ともされている。
明治頃まで、石工職人達に固有名詞は「髙」(はしごだか)が正確な表記と云う風習や流行でもあったのか、学校の銘板「高校」(くちだか)なども「髙校」(はしごだか)が存在する。
さらに云えば、最高裁判所庁舎の銘板でさえ「最髙裁判所」(はしごだか)となっている。
日本国憲法原本では「最高」(くちだか)であり、発足は1947年(昭和22年)5月8日。GHQが日本を占領、漢字の廃止と日本語のローマ字化さえ試みられていた只中、敢えて「最髙裁判所」(はしごだか)である。
既に、横書きする方向は、西欧の記法に倣う「左横書き」に揃えられていたが、文化を踏みにじられる事への抵抗だろうか。
活版印刷時代に入ると、特殊な文字は迷惑な存在で、隙あらば、「高」(くちだか)にされる形跡があり、役所の戸籍対応にともなう混乱も想像に難くない。
ゆえに、この混沌とした状態に入って以降の印刷資料やデジタルデータは、「髙井」(はしごだか)と「高井」(くちだか)が、意識して使われているのか常に疑問が残る。
今以て、「髙」(はしごだか)は、「常用漢字」「人名用漢字」「人名用漢字許容字体」でもなく、既存の姓以外には使用できない。つまり、新たな名前には使えない。2010年に至っても、JISコードの標準割り当てすら無い。
ワープロ時代は、記号等と同じく、表示できない場合さえあるメーカー別「拡張文字」扱い。
パソコン時代も機種依存文字であり、NECとIBMで割り当てが異なっていたため、未だ、92区と118区に重複して存在する始末。
ネットに於いても、Unicode(UTF-8、文字コード)が普及するまで、機種依存文字(環境により文字化け発生)のため、「高井真一」(くちだか)ですませてきた次第。
そろそろ頃合いかと、ウェブサイトやメールにて、戸籍上正確な「髙井真一」(はしごだか)表記を始めたのだが、2010年7月時点、Google ウェブマスター ツール にて分析すると、「高井」(くちだか)は、2文字で単語と扱われるが、「髙井」(はしごだか)では「髙」と「井」で、別々の単語とみなされる問題を確認。
具体的に、「髙」(はしごだか)・「真一」・「井真」・「井」の優先順で、クロール時にキーワード化され、「髙井」は認識すらされない。ゆえに、表示する環境に依存するネット上では、まだ「高井真一」(くちだか)が、妥当と判断。一日も早い「髙井」(はしごだか)の認識を願う。
- ※関係各位
- 例えば、印刷物や映画のクレジットなど、後世に残る品物は「髙井真一」(はしごだか)の正確な表記にて、揃えていただけると幸せます。
漢字の歴史
「高」と云う漢字の成り立ちは、大地の上に立った建物の象形。「京」の象形に、口(祭具)の追加で、城門から悪霊などが入り込まぬよう祓い清める意。
さらに後、例えば「稿」。原稿などでも使われる漢字だが、木が枯れて白くなる意を持たすために「高」が使われる。他の漢字も同様、「白い」や「滑らか」の意を含ませるために使われ、その根幹にある意味は、そこまで白骨化した死者。
「高」(くちだか)が正字で、「髙」(はしごだか)が俗字(異体字)。
象形、甲骨、金文、大篆、小篆 と変遷するが、「高」(くちだか)の形となるのは小篆から。
小篆は、秦の始皇帝がアジア大陸を統一した際(紀元前221年)に整理系統化されたため、古代から現在まで、俗字(異体字)側も同等に残り続けたことになる。
「井」は、井戸。泉や地下水を貯めた水汲み場以外、語ることはないが、古来より井戸は「黄泉の入り口」ともされている。
井戸の神とされるは、罔象女神(みずはのめのかみ)。水の神である「みずは」だが、伊邪那美命(いざなみのみこと)が、軻遇突智(かぐつち)を生み、焼け死ぬ際に苦しみで流した尿(ゆばり)より生まれたとされている。
井戸は、墓穴と同様、四方を壁に囲まれた深い穴。入ると出られない恐怖感より、どちらも黄泉の国(あの世、隠り世)への入口とされる。ゆえに、罔象女神は、黄泉への入口の神と。
実際にもあったのであろうが、井戸に落ちて死ぬ話、さらに転ずる異世界へと云う物語も多く残る。
秦の始皇帝(紀元前259年-紀元前210年)頃に書かれたとされる儒教の経書『周礼(しゅうらい)』に、「方相氏(ほうそうし)は、熊の皮を着て、目が四つある面を付け、戈(ほこ)を持って塚穴(つかあな゠墓穴)に入り、四隅をうって方良(ほうりょう)を駆逐。」と、ある。これは大陸から日本へも伝わり「方相氏が方良を祓う」は「陰陽師が魍魎(もうりょう)を祓う」と変遷。平安時代、都で悪行を働く鬼の退治は、陰陽師の役目と定着。
平安初期から現代まで行われている節分(鬼やらい)が、原初形態に近い形で残るのは、京都 吉田神社の追儺式。そこでは、方相氏の名がそのまま残っているが、鬼神となって悪鬼を祓っている。
つまり、大陸での「鬼」なる漢字は、白骨化して間もない死体の象形で、「魂」でもわかる通り、悪いものとは定義されていないが、国内で変化が起きている。
このような差異は、大陸の文字文化に対して、古代日本が口伝文化であり、言霊の国であった事に起因する。
例えば、「仁徳天皇(にんとくてんのう)」は、大陸との外交用の後付けで、国内では、もっぱら「おおさざきのみこと」であり、古墳にも文字として何も残っていないため確証がない。
さらに、「みとこ」単体でとらえると、「御言」の意味にもなるといった具合で、奥が深い。
また、文字とされることは、言霊を封じるとも考えられ、平安時代の陰陽師は、名を知れば、それを依代として呪をかけることも可能ともされていた。映画『千と千尋の神隠し』にて、名前で記憶を封じたり、紙の人形を操る、陰陽師的な術が描かれている。
「天皇」なる漢字も、権力争いで国を二分した兄弟喧嘩「壬申の乱(じんしんのらん)」(672年)の勝者により誕生した天武天皇(てんむてんのう)から使われたが、それまでは大君(おおきみ)であり、対大陸用に道教の最高神格の漢字を利用。陰陽五行、宇宙の中心の神だ。
それは、国内統一により、大陸からの侵略に備えるための国家戦略。
天皇なる新たな概念を定義する根拠、各豪族の口伝による歴史文化を手繰り寄せてまとめ、国内の権力を集中させる『古事記』(完成712年)編纂も、同時期に開始されている。
国外向けに、何十年もかけた『日本書紀』(720年)であるが、辻褄の合わない部分もあり、『隋書倭国伝』(600年代)からすると、十七条の憲法、カリスマ化された聖徳太子、大化の改新なる暗殺事件の顛末などについてなどは特に顕著なのだが、大宝律令(701年~)国家体制の権威付け、天皇の中央集権を強める事に必要だったのだろう。
余談。日本神話と、ギリシャ神話には、類似点も多いが、これは日本が真似たと云うより、ヨーロッパ圏に始祖を持つ人々も、渡来して住んでいたと考えた方が自然と云うのが私見。
大化の改新で活躍する中臣鎌足(なかとみのかまたり)は有名だが、後に藤原姓を作り、藤原鎌足と名乗って、藤原の祖となったのは知られていない。繁栄を極める、藤家姓(藤原・佐藤・伊藤・加藤・斎藤、後藤、近藤、斉藤、遠藤、工藤、安藤、内藤、須藤、…)の祖。
藤原鎌足の次男、藤原不比等が、大宝律令にも、『日本書紀』の編纂にも関与…だ。
例えば、ひとつ。『古事記』の編纂者、稗田阿礼(ひえだのあれ)は、暗号を示す為の架空の人名で、山上憶良(やまのうえのおくら)とされる。
山上憶良は、倭国が国号を「日本」に改めたことを大陸側に伝えた最後の遣唐使に、無位だったが少録(記録係)として加わっている人物で、「いろは歌」にて暗示されている。
平仮名47文字を覚えるのに、近年まで使われている方法が、『いろは歌』。
仮名47文字を組み合わせて、同じ仮名字が一度も重ならず歌になっているもので、遊びに使われたくさん残る。
古来から伝わるは、『いろは歌』と『たゐにの歌』で、『古事記』や『万葉集』の時代からあったとされる。
『いろは歌』は、「色は匂えど散りぬるを 我が世誰ぞ常ならむ 有為の奥山今日越えて 浅き夢見し酔ひもせず」だ。「美しくも、花と散っていく。この世、誰が永遠であり得るか。今日、困難を乗り越え、わずか良くもあったが、それに酔ってはいられぬ。」と、歌も完璧に成立。
いろはにほへと↓
ちりぬるをわか↓
よたれそつねな↓
らむうゐのおく↓
やまけふこえて↓
あさきゆめみし↓
ゑひもせす ←
最後の文字を縦に読むと、「咎無くて死す」になる。つまり、『いろは歌』=「咎無くて死す」は、公然と知られていた。ゆえに、忠臣蔵の事を『仮名手本忠臣蔵』と呼称することで「表立って口に出せないが、咎無くして死んだ話だ」との暗示が成立する。
そして、『いろは歌』誕生当時は、柿本人麻呂を指すとされる。柿本人麻呂(三輪高市麻呂)は、庶民の事も考える忠臣であったのに、咎無くして時の権力者、藤原不比等により水死刑とされている。
解読は割愛するが、『たゐにの歌』には「山上憶良」が、同様に隠されている。
『日本書紀』では、倭王の名を抹消、代わりに「天皇」と記されるのだが、藤原不比等らにより、捏造された部分があると、山上憶良が『いろは歌』によって、時代背景を踏まえるよう、後世に託したと考えられる論拠だ。
また、日本建国は、紀元前660年とされているが、文字がなく正確な記録も何もできなかった訳だから、大陸に見劣りせぬよう、当時の浅知恵で、西暦をまたいで倍と思えてならない。
663年、白村江の戦いで、唐と新羅連合軍が半島まで制圧。此処が一番の転機であろう。
それ迄は、倭、高句麗、百済、伽耶の人々、或いは唐より西から来た人々は、大陸側の半島も、島も海も、自由に行き来、交流があったのだから。
当時の日本、伝承文化的に見ると、古くから近場の九州に高千穂(天孫降臨)があり、日本海側経由の出雲(大国主)、瀬戸内経由の伊勢(天照大御神)があったろう。
歴史とは、勝者、或いは、強者の視点で都合よく書かれるが常。視点を変え、削除された歴史が記される『先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)』を読み解くことも肝要と考えるのが私見であるが、これは別の物語である。
口伝文化の文字化
正確な歴史が後世に残らない口伝文化ではあるが、聖なるものを形にしない思想は、この国独特ではなく、古代では珍しくない。
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、直線的歴史観で、同じ根源を持つ西洋宗教でも、古くは聖なる名を口にするのは禁忌であった。
古代ヘブライ語の「アドナイ」も、「私はある」の意でしかなく、今以て、神なる存在の名はわかっていない。『死海文書(しかいもんじょ)』でも、読むことが出来ないテトラグラマトン(神聖四文字)で記されている。
現在に至るも、キリスト教のカトリックとプロテスタントを分かつ壁、具現化をどこまで許容、つまり偶像を崇拝を認めるか否かで残る。
また、仏教も同様。お経によくある「如是我聞(にょぜがもん)」も、「ブッダからこのように聞いた」という意で、聖なる教えは口伝のみとしたゆえの表現。仏像も、ブッダの死後500年ほど控えられていた。
対して、甲骨文字が生まれたアジア大陸では、言霊よりも文字の方にこそ、聖なるものが宿るとされた。字を供養するための、専用焼却炉が、今以て残っている程に。
これは、聖なるものは自ずと形に現れると云う概念からで、形や並びを見る占いの思想にも通ずる。映画『もののけ姫』で、ヒイさまが、アシタカの道を占うような所作。
此の国では、古代の文明開花とされる仏教伝来時に、この衝突があり、日本初の僧侶である善信尼(ぜんしんに)は、少女にもかかわらず無残に殺され、豪族同士の戦も繰り返された。
古来よりある八百万の神と軍事が後ろ盾の物部氏、対するは仏教や新しい文明も受け入れるべきとする蘇我氏。587年、物部守屋は蘇我馬子に敗れる。
飛鳥寺完成が、漢字を受け入れた区切りとすると、609年となる。以降、明治維新後の廃仏毀釈(神仏分離令)まで、和を以て貴しとなす、神仏習合が続く。
さりとて、漢字が、簡単に口伝文化に融合できたわけではない。
漢文に一度翻訳して、その漢字を使う方法は、東南アジア諸国でも見られるが、口伝といえど、既に独自に「音」にて体系化された日本文化は存在していたため、受け入れてからも問題は山積。
方良(ほうりょう)゠魍魎(もうりょう)など、似た意味を持つ言霊への当て字。漢字そのままの当て読み。
発音や意味に合わせた漢字で、字順は漢文のままで、表記と読み順が異なるもの。そして、日本の読みに順番に変えたもの。さらには、漢字の意味は無視して一音一漢字で当て字とする方法。
さらに後世、同じ一族でも別の姓を名乗る場合があったり、既にある地名は縁起が悪いからと、同じ読みの別漢字に変えたりもなされる。
例えば、鞍馬天狗の「鞍馬(くらま)」は、元々「暗部(くらぶ)」と、暗い場所の意味で呼ばれていた。奈良の吉野は、古くから「よしの」と呼ばれると云うが、善野、好野の可能性だってあった筈。
八岐大蛇(やまたのおろち)伝説の残る須我神社(すがじんじゃ)も、須佐之男命(すさのおのみこと)が、その地を「すがすがしい」と、表現したからであって、それなりの意味を持たせるための当て字。
地名については、地理や由来、産物など『風土記』(713年)の影響が甚大。『古事記』『日本書紀』の天武天皇の義娘、後に天皇ともなる元明天皇によるもの。
出雲のみ歴史的事情で特別扱いだが、残るすべて官が行うお役所仕事。天皇に都合よく書かれただろうこの書物により、地名は「縁起の良い二文字の漢字」に、改変されてしまっている。
琵琶湖は、都の近くの淡水の海。『古事記』では「近淡海(ちかつあわうみ)」だったが「近江(おうみ)」と云う地名に使われる。「遠淡海(とおつあわうみ)」は浜名湖で、地名は「遠江(とおとうみ)」。
産物の「科の木」から「信濃」、「木」は「紀伊」「粟」は「阿波」。地形の「窪」は「久保」。都からの方角で、火山の「火」は「肥前」「肥後」、山越えの「越」は「越前」「越中」「越後」、太平洋側「隈」は「熊野」。「泉」は「和泉(読まない漢字追加)」などまである。
最も問題なのは、本来は意味が異なるものと混同されたり、何故か誤解され真逆の意味で広まってしまったりしている漢字。平仮名も生まれる前ゆえに、読み書き統一の苦難や曖昧さが続いた訳だ。
さらに、文化として受け入れた仏教および漢字だが、経典の中身について云えば、漢文になる前は天竺(てんじく、現インド)のサンスクリット語。
例えば「菩薩(ぼさつ)」さえも、サンスクリット語。
仏像で、悟りを開いている坐像の「如来(にょらい)」の格下は、修行中の立像姿が多い「菩薩(ぼさつ)」だが、修行僧を意味する「ボーディ・サットヴァ」が訛ったもの。
629年、三蔵法師が、漢文への翻訳が意味不明だったり、数としても不完全な経典を補完するため、天竺まで赴き、当時の唐に存在しない言葉は創作して、サンスクリット語からの翻訳に、生涯を費やしている事からも、日本に入ってきた時点の状態が如何なるものか想像出来る。
ゆえに、お経にある単語は、漢文に変換された時点で、音をそのまま伝える事はできず、さらに日本では違う発音として広まったわけだ。
日本でも、大陸経由の翻訳を介さない直訳の経典で、大陸系儒教的な影響を受ける前の仏教に触れたいと考え実行した、河口慧海(かわぐちえかい)が居たが、明治になってからの話。当時原書や近い形で残っているのは、最後の秘境であったチベット。
イギリスの勢力圏下のインドと清(しん)の間にあり、清の背後から南下する帝政ロシアと云う世界情勢下、河口慧海は、インドでチベットの言葉や文化を勉強後、ヒマラヤを越え、ラサのポタラ宮へ辿りつき修行。経典も持ち帰り、西蔵(チベット)旅行記(1904年)を著述している。
さて、再び話を平安時代へ。
『続日本後紀(しょくにほんこうき)』(869年)には、「日本(ひのもと)の 倭(やまと)の国は 言霊(ことだま)の 幸(さきわ)う国ぞ 此の国の 本(もと)つ詞(ことば)に逐(お)い依(より)て 唐(大陸)の詞(ことば)を 仮(か)らず」とある。
勿論、原文は仕方なく漢文で記されているが、平安貴族(為政者)が、本来の日本文化を忘れ、大陸文化の真似しかできなくなっている事態を嘆いている。
当時の大陸は、唐(とう)であり、定期的に遣唐使が送られ外交を行っていたのだが、東アジアの共通語は漢文であったため、出世にも漢文知識が重要視されていた。
700年までに万葉仮名は成立しており、800年代後期には平仮名も存在していたが、女性の教養として、和歌の恋文を書くために用いられる。
893年より、参議(国務大臣相当)になっていたのは、菅原道真。
此の頃になると、律令制度も限界となっており、民衆は人頭税に耐えかね、半島から来る新羅(しらぎ、しんら)の海賊に、対馬や九州を襲撃され、破綻寸前の財政を国防費が圧迫していた。
そこで、唐から最新知識を得るため、57年ぶりの遣唐使計画が持ち上がるのだが、唐から届いた知らせは、唐で大規模な反乱(黄巣の乱)があり、十余年の長きにわたり戦乱が続いていて、衰退も著しく、得られるものが無いとの内容。
そして、300年続いた遣唐使は廃止され、律令制度も捨てることになる。
平仮名が、公式の文字として初めて使われ、天皇に奉上されたのは『古今和歌集』(905年)。成したのは、藤原時平(ふじわらのときひら)。
その序文に、「やまとうたは ひとのこころを たねとして よろずのことのはとぞ なれりける」とある。漢字だけでない和歌は、人の心を種として、よろずの意味を含ませた言葉に成り得ると。
例えば、「あきちかう」は、「秋が近い」と云う意と、「あ桔梗(ききょう)」の意を合わせ持たせることが可能と云う具合。
これは、大陸の文化依存からの独立、国風文化の始まりである。ようやく漢字文化と、古来の口伝文化が融合したとも云える。
寝殿造り等の建築様式、十二単などの着物文化。唐を真似た律令制度から、政治制度や思想も独自の歩みを始める。
陰陽道も独自発展を遂げるが、仏滅(本来は物滅)等の日柄、年中行事(七草がゆ、節分、ひな祭り、端午の節句、七夕、七五三)と、現代まで残る。ひと役かったのは『桃太郎』などの民話。
論理的な漢文より、感情が表現できる平仮名を使う事により、世界初の長編小説『源氏物語』(1001年)や『枕草子』など、世界に誇れる文学も生まれた。鎌倉時代(1185年頃-1333年)には、『方丈記』が書かれており、此の頃には漢字と平仮名を巧みに使った和漢混淆文(わかんこんこうぶん)が成立、今以て使われている。
明治以降は、逆に西洋文化の概念を的確な漢字に置き換え、本家 大陸に漢字を輸出している訳だが、漢字の話も、また別の物語である。
先ず以て、漢字が生来持つ意味や属性は、輸入された後、混沌とした過程を経て、変質した可能性もある訳だ。
名字の状況
髙(高)を含む姓で、最も多いのが、髙橋姓(高橋姓)。渓谷にかかる吊り橋周辺の地名姓ゆえ、全国各地に発祥があり、遡っても高低の意しか無い。
同じく橋の付く地名姓でも、橋本や大橋などの場合、対象が川面の橋。渡し船だったものが、川の流れに耐えられる橋脚技術が確立されて以降であり、歴史的に新しい。
『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』(815年)に、氏姓制度(しせいせいど)制定時(684年)、天武天皇により、高橋村なる地名より「高橋」(くちだか)姓が名付けられたとあり、写本を見る限りでは、日本初は「高橋」(くちだか)のようだ。
が、一般には区別して使われておらず、公文書のみ、秦の始皇帝が定めた「小篆」、つまり、正字である「高」(くちだか)で統一されていたと思われる。少し前に記された『万葉集』(759年)では、同じ地名として「髙橋」(はしごだか)でも記されている。
明治まで、論語(儒教)は広く使われた学問。写本であれば「髙」(はしごだか)が使われていただろう。それを敢えて使う方が、粋であったり、学があるとされたのだろうか。論語の、子曰(しのたまわく)の類だったり、天皇のことを大君(おおきみ)と、古式ゆかしく口にすることもあるように。
筆による手書きに於いて、「髙」(はしごだか)の方が流れるように書けたり、見栄えが良かったりだろうか、或いは、近年まで石工職人にも残った、名称(固有名詞)は「髙」(はしごだか)と云う、風習の始まりだろうか。
「高橋」(くちだか)は、日本の名字ランキングでも、第3位。すこぶる多い。
その中で、「髙橋」(はしごだか)は、657世帯に1世帯の割合。
「高井」(くちだか)は、390位前後。
その中で、「髙井」(はしごだか)は、262世帯に1世帯の割合。
髙井姓(高井姓)が、髙橋姓(高橋姓)と同じような成り立ちならば、高い所にある井戸となる。
然しながら、見上げるような高い井戸とは如何なるものか。高杉姓、或いは石井姓など、読んで字の如くで、得心が行くのだが、場所として、高い所に在るならば、むしろ源泉に近く、泉や湧き水であり、井戸と呼ぶだろうか。水は低きに流れるもの。井戸を掘るなら、水脈を目指して下に掘る。
高低よりも、「高」が本来持つ「祓い清める意」ならば、清める水を汲むための井戸か。
もっと古く、口伝、言霊として「たかい」が先にあるならば、「他界」ともなり、其の当て字。
ならば、天にでもある、黄泉の国や隠り世の入口なのだろうか。
「高井」(くちだか)が、記され判ずるのも、前述の『新撰姓氏録』(815年)。
此処に、「高井造(たかいのみやつこ)、山城国(やましろのくに=京都府南部)、高麗国主 鄒牟王 二十世孫、汝安祁王(じょあんきおう)より出づ」とある。
高句麗滅亡後(716年)、亡命してきた高麗国王の末裔として帰化した、高麗氏、狛氏、高氏、長背氏、難波氏、後部氏、高井氏の流れだ。
だが、前述の姓「高橋」誕生にしても、684年に天武天皇が「八色の姓」と云う氏姓の制度を定めた際、「膳(かしわで)」と云う姓の者に、高橋村に住んでいる理由から高橋と名乗るように命じたと云う。さらに多い苗字の「鈴木」姓にしても、「穂積(ほずみ)」姓の中のひとりが意味が同じ「すずき」と云う音に当て字で「鈴木」と名乗り始めたのが始まりらしい。
東北の古代民族も、遡れば出自は高句麗(こうくり、紀元前37年 - 668年)とも云え、「高井」(くちだか)の地名で、最も古いとされる、高井郡や下高井郡も、長野県に残る。
ゆえに、「高麗」や「高(こう)」と発音する苗字は、高句麗滅亡後、新たに作られた可能性もあるが、「高井(たかい)」の場合は、地名や苗字が既に存在して、割り当てられた可能性がある。
663年、白村江の戦い(はくすきのえのたたかい、はくそんこうのたたかい)で、唐と新羅連合軍が半島を制圧した際、半島の百済(くだら)を救うため此の国からも水軍を送っているが壊滅。
其の後、百済人たちを亡命させるために尽力、亡国の百済人に国土を開放して、当時の文部大臣にあたる役職についた百済の貴族、鬼室集斯(きしつしゅうし)の墓も、近江に残っている。
日本から多く移り住んでいたとされ、半島でも最も日本に近い伽耶(かや)の人々も、避難してきただろう。
此の頃から、近代的な意味での民族意識が始まる。国家や領土意識の始まりである。それまでは、半島も島も海も誰かのものでなく、自由に行き来されていたのだから。
古代に半島や大陸から渡ってきた倭国の人々、半島との自由な交流時代、そして、唐と新羅連合軍が半島を支配した事により、日本を守るために国家体制を築こうとした倭国と、高句麗、百済、伽耶(かや)の人々。
半島が侵略された事により、民族意識が高まる。天皇なる概念を作り、律令制度を設け、『古事記』や『日本書紀』が編纂され、唐との関係も保ちつつ文化を輸入して、大陸からの侵略に備え始めたのだ。
厩戸皇子(聖徳太子)の仏教の師も、高句麗から595年に渡来した僧であり、610年に顔料や紙墨を伝えたのも、同じく高句麗から渡来した僧。
半島の経由であっても、古くは大陸、ペルシャ、イスラエル、ローマ等からの民族も含まれ、例えば、新羅(紀元356年- 935年)は、当初、半島の他国と言葉が通じなかったともされ、古代ローマ人との説もある。なお、蘇我氏も新羅からの渡来人。
文化的にも、例えば、大陸から節分が伝わったのは古いが、豆を撒く風習はなかった。前述のように、節分の原初形態である追儺式(ついなしき)では、方相氏(鬼神)が、矛で悪鬼を祓い、神官達が、桃の弓と葦の矢で追い祓う。
現代の形となり、初めて書物に記されるのは、『臥雲日件録(がうんにっけんろく)』と云う、室町時代の僧の日記。豆を使ったのは、宇多天皇(867- 931)の頃からともされるが、所作に於いて、古代ローマのレムリア祭と共通点が多い。レムリアも死霊の意味で、鬼が本来持つ魍魎、大陸の方良と同じ性質。
此方の根源
九州や出雲、そして近畿は、大陸からの海路があり、古代から栄えるが、大和朝廷が政治の中心となった頃は、東北は「道の奥」(みちのく)と呼ばれた名残もあるように、都から見れば、関東さえも田舎なのだからして、さらに奥の大田舎。
関東で、神官の家系となると、東北(長野)系は除かれる。
平家方では元号を使用せず、寿永を引き続き使用していた時代の元号、元暦年間(1184年-1185年)に創建された、宮尾神社(住吉神社琴平神社合社)あり、ここで「髙井」(はしごだか)が記される。
宮司は愛敬山東福院。
上恩方村字関場の本山派修験僧坊であり、文治年間(1185年-1189年)から、高留の住吉・琴平の両神社の別当を兼ねる名門、所謂 地域の顔役。
東福院は、髙井家が代々先達を務め、現存する宮尾神社宮司も、髙井姓。
群馬県高崎市、市重要文化財として、北条氏康の署名がある高井家文書あり。
其の地を治めた権力者からの書状が19通。上杉憲當(憲政)、小田原城主 北条氏康、最後の和田城主 和田信業、武田勝頼の重臣 跡部勝資、北条氏邦(氏康の子)・氏直(氏康の孫)と、戦国の世ゆえ、寺社などそのまま権力が移り変わる。
下総相馬氏二十一代当主、相馬治胤(そうまはるたね、1541-1602)は、高井孫三郎であり、下総国相馬郡高井村は、茨城県取手市下高井として残る。
1566年、相馬整胤(そうままさたね)亡き後、姉妹の夫である高井孫三郎(相馬孫三郎治胤)が、宗家の家督を相続。
1590年、豊臣秀吉が天下取りの大仕上げとして、北条氏の小田原城を包囲した小田原攻め(小田原の役)では、弟 高井胤永と小田原城へ籠城している。
進雄神社(すさのおじんじゃ)は、江戸時代まで牛頭天王(ごずてんのう)を祭る「天王社」と呼ばれ、柴崎町髙井家が代々神職を継いでいる。
天正十八年六月(1590年)。
北条氏照(北条氏康の三男)の小田原入城により、主を失った八王子城では軍議が行われ、そこに案下東福院(東福院は代々髙井家が務める)の記述あり。
江戸幕府にも、1817年から3年、伊勢奉行を努め、1820年から10年、大阪東町奉行を務めた、高井実徳(たかいさねのり)なる人物あり。
文政三年(1820年)、大阪東町奉行として赴任。周囲に遠慮せず正しい事を行う方針であり、大塩平八郎の良き理解者となる。役人の不正を許さなかった大塩平八郎の『三大功績』と呼ばれる大きな民政上の事件解決は、高井実徳の後ろ盾あってこその為、高井実徳の転勤と共に大塩も与力を辞している。
髙井一山(東福院)。
増田蔵六門下 天然理心流剣客 文久元年(1861年)隠居。
髙井丹吾(1840年-)。
宮内と命名された嫡男で、明治廃仏により、最後となる東福院。
山本満次郎門下 天然理心流剣客。
北辰一刀流は、お上品過ぎて満足できず、荒っぽい天然理心流を好んだらしい。
上洛して、壬生の「新選組」屯所を訪れ入隊を希望したが、長男故をもって断られたとのこと。
山岡鉄舟により、秀勝髙井先生寿碑あり。
髙井宮吉(1897年-1972年 中村雨紅)。
丹吾の子。次男のため神職継がず、詩人・童謡作家 野口雨情に師事。中村雨紅を名乗る。
代表作『夕焼小焼』は、JR八王子駅発車メロディーに採用。
一方、品川、三谷八幡神社の系譜。
現 高井銕夫宮司。先代に嫡男できず、養子。
品川区剣道連盟会長。東京至誠館道場主席師範。宝蔵院流高田派槍術小倉系伝承。裏千家茶道教授。剣道範士八段。刀道範士八段。
高井戸は、本来、高井堂と呼ばれ、地域に親しまれた「お不動さん」があった場所。
現在は、団地になっていて、三谷八幡神社宮司 祖先15代の墓のみ残る。
明治の廃仏毀釈の際(神仏分離令・大教宣布)、寺か神社の選択を迫られ、神社を選択した事で、結果的に没落。土地もすべて売り払うことになり、高井堂の名前だけが残って、いつの間にか高井戸となった。
今の東京都知事にあたる初代の方(東京都長官?)より、墓だけは残してよいとの証文が、移転された現在の三谷八幡神社に残っており、杉並区が史跡に指定する方向で調査中と聞く。
※ 関係する皆様、三谷八幡神社 高井銕夫宮司もご高齢ゆえ、助力いただけると倖せます。
群馬、高崎神社の髙井浄御宮司は、神官の最高位を持つ方との事。
祖父の姉が、関東大震災後、群馬県前橋市の魚屋へ嫁いだ事から、群馬あたりに何らかの縁者がいたものと推測。
群馬には、前述の進雄神社もあるため、近々、訪ねてみる予定。
最終更新(加筆訂正): 2012年4月13日 高井真一 拝