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尋ね人: 髙井文之進縁者

亡き祖父が、生前、親族を探していたと回顧録で知り、30数年経過と遅蒔きながら調べてみようかと。
家紋、姓の由来も知らぬ由。

祖父の回顧録にて、高祖父までの名は判明。

  • 四親等(高祖父)髙井文之進 ── 関東周辺の神社宮司(明治時代)
  • 三親等(曽祖父)髙井鉄三郎 ── 関東大震災により横浜で消息不明
  • 二親等(祖父 1915年-1976年)髙井良明 ── 生後すぐに養子、8歳で天涯孤独
  • 一親等(親父 1939年-)
  • 捜索者(当人 1970年-)

髙井鉄三郎については、祖父の父ゆえ、さらに子細が記される。

髙井文之進の子であり、関東の出、代々神職の家系生まれ。
中村家の神社(山口県美祢市)に、取り子取り嫁で、後継となったとある。

鉄三郎という名から、三男と推測。
長男が、本家神社の跡継ぎとなったのであろう。

1915年(大正4年)。鉄三郎の妻は、第四子(祖父)の出産後、山口県宇部市にて落命。
当時、呉服屋だか料理屋を商っていたとあるが、何故、宇部市に居たか含め不明。

帝国主義の時代。強制改宗のための国家神道。
その準備たる神社合祀令で、5万もの神社が 3年で廃止され、町村に 1つとなった。
その影響により、跡を継いだ神社は強制的に合祀され、職を失ったと推察。

また、当時の宇部は、炭鉱からの石炭を運ぶ鉄道が張り巡らされている全盛期。
職を求めたとすれば、山口県内陸の美祢から、景気の良い瀬戸内側の宇部に転居が妥当だろう。

1923年(大正12年)、関東大震災が起こる。
祖父は生まれてすぐ宇部の知人に里子にだされ助かったが、残る家族は横浜にて消息不明となる。

宇部市は、炭鉱のために、即興で出来たような街。

戦国時代、大内から毛利へ支配が移ったが、関ヶ原以降は外様大名ゆえ、領地も縮小。
家臣共々生き残るために、埋め立て開作が行われ、宇部の市街地含む瀬戸内側も該当。
それ迄は海底ゆえ、歴史の表舞台には登場せず…と。

祖父は、沖ノ山炭坑長屋、炭鉱夫 三島家の子となり、幼い頃から働いている。
小学生になり、所用で訪れた役場にて、他家の子である出自や、実父母の死を知ることになる。

それから数十年の後。
震災から生き残っていた姉 幸子の手掛かりを掴むが、群馬県前橋市の魚屋へ嫁ぎ、既に病死であった。
震災で家族を失った後、横浜あたりを 1年かけて家族を捜索するも見つからず。その後、宇部に居る 9歳の弟(祖父)を訪ね、頭を摩ってラムネを飲ませてくれたようだが、祖父は初対面で事情もわからず、姉もすぐ上京のため、祖父の記憶には留まらなかったのだ。

祖父は、石炭を運搬する会社を起業、現在も残る。
会社という大きな屋根があれば、家族が離れることなく、仕事にも困らず、皆で暮らせると考えてと記されている。

戦後の復興期にあり、会社は大きくなったが、祖父の親族など血縁者は見つからぬまま。
1976年(昭和51年)、癌で亡くなる。享年61。此方、まだ幼稚園に通っていた頃の話。

そして、当世。
祖父の回顧録をもとに再試行中。

今以て、髙井家(高井家)が代々宮司(先達)を務める神社は幾つか存在。
東京、八王子の住吉神社琴平神社合社(宮尾神社)は、童謡『夕焼け小焼け』の作詞者、中村雨紅(髙井宮吉)の実家だが、宮司に伺ったところ、名の付け方から系譜は異なると判明。
もう一つ、東京にある、品川の三谷八幡神社(高井戸の由来)も訪れたが、系譜が異なると判明。
残る群馬、高崎神社や進雄神社も訪ねる予定。

髙井文之進の直系子孫の方など、何か情報があれば連絡を賜りたく、宜しくお願い申し上げ候。

髙井(高井)由来

※ 訂正すべき誤り、或いは、ご意見、ご感想など御座いましたら、遠慮なく 打電 下さい。

漢字の環境

髙井姓(高井姓)は、関東では多くない姓。
源平の時代以前と思われるが、関東へ下った髙井姓は、辿ると大きく3系統。

その流れから「高井城」や「高井村」などが生まれ、地名に至り、地名姓でも派生。
地名では、東京の「高井戸」、長野の「上高井郡」などあるが、始まりの詳細は後述す。

高井城(平城含む)についてだけでも、知る限り4つ存在。相馬系譜のみ茨城県取手市下高井に城跡も現存。

先頃、高井城主子孫の方から連絡いただき、現在も「髙井」(はしごだか)であり、家紋は「違い矢」との事。大阪府貝塚市名越(和泉国)にあった城と推察されるが、天正13年 秀吉の根来(ねごろ)攻めの際、福島正則により落城。後、高井天神社(菅原神社)として祀られ、明治41年に合祀と記録が残る。

つまり、この事にまつわる記述に於いては「髙井」(はしごだか)が正式な表記となる。

「髙井」(はしごだか)、「高井」(くちだか)の違いだが、江戸期まで綿々と姓に使っていた家は、明治維新後も「髙井」(はしごだか)のままと残そうとしたと思われる。

明治維新直後、苗字に関連する様々な法令が実施された。

  • 1870年(明治3年)9月19日 平民姓許可令。
  • 1871年(明治4年)8月29日 廃藩置県。
  • 1875年(明治8年)2月13日 平民姓必称義務令。

廃藩置県や国語改革で、由来に関わらず地名で使われる漢字は「高」(くちだか)で揃えられ、現在の地図や住所からは消えている。活版印刷の影響が大きい。

推測の域ではあるが、現在の戸籍に「高井」(くちだか)記載の家は、あくまでも地名由来の「地名姓」であり、昔から使っていようと、「平民姓必称義務令」からだろうと、住所の漢字変更にともなう「高井」(くちだか)揃えに異議なく習ったのではなかろうか。

一方の「髙井」(はしごだか)は、時勢に逆らい、残したことになる。

「髙」(はしごだか)は、旧字体(古い漢字)と混同されがちだが、それは第二次世界大戦前後に行われた「国語改革」で、字体が簡素化された「当用漢字」や「簡易慣用字体」に使われる表現のため、二千年の隔たりがある。

例えば、「当」の旧字体は「當」だが、古くから 1949年まで公文書等で使われ、まさに近年の新字体と云える。
昭和初期でも「當役場へ 相談へお出下さい」との張り紙が見受けられ、その他にも、「鉄」が「鐵」、「学」が「學」、「国」が「國」、「真」が「眞」、「沢」が「澤」、「桜」が「櫻」、「広」が「廣」、「辺」が「邊」、「浜」が「濱」などの漢字が使われ、名前に使われる漢字も多く含まれる。

「高」(くちだか)は、二千年以上前の大陸、秦の始皇帝の時代から既に存在、高低の形容詞などで使われてきたが、「髙」(はしごだか)側も現在まで残り続けている。

名詞利用での使い分けに規則性を見出すのは困難で、国内の石碑などは同一人物なのに揃っていない場合もあるようだ。

例えば、幕末から明治あたり。高杉晋作の墓標も、後年に幕末志士が集められた京都霊山護国神社、下関の桜山神社ではそのままだが、各地の記念碑では「髙杉晋作」(はしごだか)が見受けられる。

明治頃まで、石工職人達に固有名詞は「髙」(はしごだか)が正確な表記と云う風習や流行でもあったのか、学校の銘板「高校」(くちだか)なども「髙校」(はしごだか)が存在する。

さらに極め付け、最高裁判所庁舎の銘板でさえ「最髙裁判所」(はしごだか)となっている。

日本国憲法原本では「最高裁判所」(くちだか)であり、発足は1947年(昭和22年)5月8日。GHQが日本を占領、漢字の廃止と日本語のローマ字化さえ試みられていた只中、敢えて「最髙裁判所」(はしごだか)である。

既に、文字を横書きする方向は、西欧の記法に倣う「左横書き」に揃えられていたが、文化を踏みにじられる事への抵抗だろうか…。

活版印刷時代に入ると、特殊な文字は迷惑な存在のため、隙あらば「高」(くちだか)にされる形跡があり、役所の戸籍対応にともなう混乱も想像に難くない。

TBSテレビ『この差って何ですか?』の取材によると、同じ読みで複数の漢字がある「さいとう」は、明治期の役場で書き間違ったまま記載したために何十種類にもわかれてしまっただけで、もともとは藤原氏の一族の「斎宮寮(さいぐうりょう)の藤原氏」の意からで、ただひとつらしい。口頭で名字を伝えた時に、書き取った役人の能力差とのこと。

これは日本テレビ『月曜から夜ふかし』でも取り上げられ、同様に何十種類もある「わたなべ」も、仕事からできた「渡部」と地名からできた「渡辺」しか存在せず、他はただの間違いとのこと。

2015-09-04 加筆

今以て、「髙」(はしごだか)側は、「常用漢字」「人名用漢字」「人名用漢字許容字体」でもなく、既存の姓以外には使用できない。つまり、新たな名前には使用不可。JISコードの標準割り当てすら無い。

ゆえに、この混沌とした状態に入って以降の印刷資料やデジタルデータは、「髙井」(はしごだか)と「高井」(くちだか)が、意識して使われているのか、常に疑問が残る。
ワープロ時代は、記号等と同様、表示できない場合さえあるメーカー別「拡張文字」扱い。
パソコン時代以降も機種依存文字であり、NEC と IBM で割り当てが異なっていたため、92区 と 118区 に重複して存在する始末。

インターネット時代に於いても、Unicode(UTF-8、文字コード)が普及するまで、機種依存文字(環境により文字化け発生)のため、「高井真一」(くちだか)ですませてきのだが、SNSやスマートフォンの普及に伴い、表示する環境に依存する機会は大幅に減ったであろうと推察。
2012年。そろそろ、ウェブサイトやメールでも、戸籍上正確な「髙井真一」(はしごだか)での表記に移行とす。

既知の問題(2012年9月時点)
  • Amazon の届け先住所入力で、名前に使えない文字が含まれているからと拒絶される。
  • Google で「髙井」は単語認識されない事象。Google ウェブマスター ツール にて分析すると、「高井」(くちだか)は、2文字で 1単語と扱われるが、「髙井」(はしごだか)では「髙」と「井」で、別々の単語とみなされる問題を確認。

漢字の歴史

「高」と云う漢字の成り立ちは、大地の上に立った建物。「京」の象形に、口(祭具)の追加で、城門から悪霊などが入り込まぬよう祓い清める意とある。

さらに後、例えば「稿」。原稿などでも使われる漢字だが、木が枯れて白くなる意を持たすために「高」が使われる。他の漢字も同様、「白い」や「滑らか」の意を含ませるために使われ、その根幹にある意味は、そこまで白骨化した死者。

「高」(くちだか)が正字で、「髙」(はしごだか)が俗字(異体字)。

象形、甲骨、金文、大篆、小篆 と変遷するが、「髙」(はしごだか)から「高」(くちだか)の形に変わるのは小篆から。

小篆は、秦の始皇帝がアジア大陸を統一した際(紀元前221年)に整理系統化されたため、古代から現在まで、俗字(異体字)側も同等に残り続けたことになる。

「井」は、井戸。泉や地下水を貯めた水汲み場以外に語ることはないが、井戸は「黄泉の入り口」に喩えられる。
部屋の上面、天井(てんじょう)にも「井」が使われるが、仏教由来にせよ建築の形状にせよ、井戸ありき。

井戸の神とされるは、罔象女神(みずはのめのかみ)。水の神である「みずは」は、伊邪那美命(いざなみのみこと)が、軻遇突智(かぐつち)を生み、焼け死ぬ際に苦しみで流した尿(ゆばり)より生まれたとされている。

また、墓穴と同様、四方を壁に囲まれた深い穴。入ると出られない恐怖感より、どちらも黄泉の国(あの世、隠り世)への入口とされる。ゆえに、罔象女神は、黄泉への入口の神と。

実際にもあったのであろうが、井戸に落ちて死ぬ話、さらに転ずる異世界への入口とする物語も多く残る。

平安初期から現代まで行われている節分(鬼やらい)が、原初形態に近い形で残るのは、京都 吉田神社の追儺式。そこでは、方相氏の名がそのまま残っているが、方相氏(鬼神)が、矛で悪鬼を祓い、神官達が、桃の弓と葦の矢で追い祓う。

大陸での「鬼」なる漢字は、白骨化して間もない死体の象形で、「魂」という漢字でもわかる通り悪いものとは定義されていないが、国内で変化が起きている事になる。

このような差異は、大陸の文字文化に対して、古代日本が口伝文化であった事に起因する。

口伝文化の文字化

正確な歴史が後世に残らない口伝文化ではあるが、聖なるものを形にしない思想は、この国独特ではなく、古代では珍しくはない。

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教といった直線的歴史観の同じ根源を持つ西洋宗教でも、古くは聖なる名を口にするのは禁忌であった。

古代ヘブライ語の「アドナイ」も、「私はある」の意でしかなく、今以て、神なる存在の名はわかっていない。『死海文書(しかいもんじょ)』などでも、読むことが出来ないテトラグラマトン(神聖四文字)で記されている。

現在に至るも、キリスト教のカトリックとプロテスタントを分かつ偶像崇拝を認めるか否かでも、形にする事への隔たりは残っている。

また、仏教も同様。お経によくある「如是我聞(にょぜがもん)」も、「ブッダからこのように聞いた」という意で、聖なる教えは口伝のみとしたゆえの表現。仏像も、ブッダの死後 500年ほど控えられていた。

対して、甲骨文字が生まれたアジア大陸では、言霊よりも文字の方にこそ聖なるものが宿るとされた。それは、字を供養するための専用焼却炉が現在も残っている程に。

これは、聖なるものは自ずと形に現れると云う概念からで、形や並びを見る占いの思想にも通ずる。映画『もののけ姫』で、ヒイさまが、アシタカの道を占うような所作。

此の国では、古代の文明開花とされる仏教伝来時に、この衝突があり、日本初の僧侶である善信尼(ぜんしんに)は、少女にもかかわらず無残に殺され、豪族同士の戦も繰り返された。

古来よりある「八百万の神」と「軍事」が後ろ盾の物部氏、対するは「仏教」や「新しい文明」も受け入れるべきとする蘇我氏。
587年、物部守屋は蘇我馬子に敗れ、古代の文明開花はなる。

飛鳥寺完成が、漢字を受け入れた区切りとすると、609年となる。以降、明治維新後の廃仏毀釈(神仏分離令)まで、和を以て貴しとなす、神仏習合が続く。

さりとて、漢字が、簡単に口伝文化に融合できたわけではない。

漢文に翻訳して、その漢字を使う方法は、東南アジア諸国でも見られるが、口伝といえど、既に独自に「音」にて体系化された日本文化は存在していたため、受け入れてからも問題は山積。

似た意味を持つ言霊への当て字。漢字そのままの当て読み。発音や意味に合わせた漢字で、字順は漢文のまま表記するため読み順が異なるもの。日本の読みに順番を揃えたもの。漢字の意味は無視して、一音一漢字で当て字とする方法など、混沌とする。

さらに後世、同じ一族でも別の漢字で姓を名乗る場合があったり、既にある地名は縁起が悪いからと、同じ読みの別漢字に変えたりもなされる。

例えば、鞍馬天狗の「鞍馬(くらま)」は、元々「暗部(くらぶ)」と、暗い場所の意味で呼ばれていた。奈良の吉野は、古くから「よしの」と呼ばれると云うが、そうなると漢字は後付けとなる。

八岐大蛇(やまたのおろち)伝説の残る須我神社(すがじんじゃ)も、須佐之男命(すさのおのみこと)が、その地を「すがすがしい」と、表現したからであって、それなりの意味を持たせるための当て字。

地名については、地理や由来、産物などがまとめられた『風土記』(713年)で決定付けられているものが多い。
『古事記』『日本書紀』の天武天皇の義娘、後に天皇ともなる元明天皇によるものだ。

出雲のみ歴史的事情で特別扱いだが、残るすべて、官が行うお役所仕事。
天皇に都合よく書かれただろうこの書物により、地名は「縁起の良い二文字の漢字」に、改変されてしまっている。

琵琶湖は、都の近くの淡水の海として『古事記』では「近淡海(ちかつあわうみ)」だったが、「近江(おうみ)」と云う地名の由来になる。「遠淡海(とおつあわうみ)」は浜名湖で、地名は「遠江(とおとうみ)」となる。

産物の「科の木」から「信濃」、「木」は「紀伊」、「粟」は「阿波」。
都からの方角も考慮して、火山の「火」は「肥前」「肥後」、山越えの「越」は「越前」「越中」「越後」、太平洋側「隈」は「熊野」。
漢字二文字に揃えるため、地形の「窪」は「久保」、「泉」は「和泉(読まない漢字追加)」などまである。

最も問題なのは、本来は意味が異なるものと混同されたり、何故か誤解されて真逆の意味で広まってしまった漢字。
平仮名も生まれる前ゆえに、読み書き統一の苦難は続く。

文化として受け入れた「仏教」と「漢字」だが、経典の中身について云えば、漢文になる前は天竺(てんじく、現インド)のサンスクリット語で、例えば「菩薩(ぼさつ)」さえも、サンスクリット語だ。

仏像で、悟りを開いている坐像の「如来(にょらい)」の格下は、修行中の立像姿が多い「菩薩(ぼさつ)」だが、修行僧を意味する「ボーディ・サットヴァ」が訛ったもの。

629年、三蔵法師が、漢文への翻訳が意味不明だったり、数としても不完全な経典を補完するため、天竺まで赴き、当時の唐に存在しない言葉は創作、サンスクリット語からの翻訳に生涯を費やしている事からも、日本に入ってきた時点の状態が想像出来る。

お経にある単語(漢字)は、漢文に変換された時点で、音をそのまま伝える事はできず、さらに日本では違う発音として広まったわけだ。

日本でも、大陸経由の翻訳を介さない直訳の経典で、大陸系儒教的な影響を受ける前の仏教に触れたいと考え実行した、河口慧海(かわぐちえかい)が居たが、明治になってからの話。当時、原書や近い形で残っていた、最後の秘境であるチベットに赴いている。

『続日本後紀(しょくにほんこうき)』(869年)には、「日本(ひのもと)の 倭(やまと)の国は 言霊(ことだま)の 幸(さきわ)う国ぞ 此の国の 本(もと)つ詞(ことば)に逐(お)い依(より)て 唐(大陸)の詞(ことば)を 仮(か)らず」とある。

勿論、原文は仕方なく漢文で記されているが、平安貴族(為政者)が、本来の日本文化を忘れ、大陸文化の真似しかできなくなっている事態を嘆いている。

当時の大陸は、唐(とう)であり、定期的に遣唐使が送られ外交を行っていたのだが、東アジアの共通語は漢文であったため、出世にも漢文知識が重要視されていたのだ。

700年までに万葉仮名は成立しており、800年代後期には平仮名も存在していたが、女性の教養として、和歌の恋文を書くために用いられる。

893年より、参議(国務大臣相当)になっていたのは、菅原道真(すがわらのみちざね)だが、此の頃になると、律令制度も限界となっており、民衆は人頭税に耐えかね、半島から来る新羅(しらぎ、しんら)の海賊に対馬や九州を襲撃され、破綻寸前の財政を国防費が圧迫。

そこで、唐から最新知識を得るために 57年ぶりの遣唐使計画が持ち上がるが、唐から届いた知らせは、唐で大規模な反乱(黄巣の乱)があり、十余年の長きにわたり戦乱が続いていて、衰退も著しく、得られるものは無いとの内容。

300年続いた遣唐使は廃止され、律令制度も捨てることになる。

平仮名が、公式の文字として初めて使われ、天皇に奉上されたのは『古今和歌集』(905年)。
成したのは、藤原時平(ふじわらのときひら)。

その序文に、「やまとうたは ひとのこころを たねとして よろずのことのはとぞ なれりける」とある。
漢字だけでない和歌は、人の心を種として、よろずの意味を含ませた言葉に成り得ると。

ここにきて、大陸の文化依存からの独立、国風文化の始まりだが、ようやく「漢字文化」と古来の「口伝文化」が融合したとも云える。
寝殿造り等の建築様式、十二単などの着物文化が育まれ、政治制度や思想も唐を真似た律令制度から独自の歩みを始める。

論理的な漢文より、感情が表現できる平仮名を使う事により、世界初の長編小説『源氏物語』(1001年)や『枕草子』などの文学も生まれた。
鎌倉時代(1185年頃-1333年)には、『方丈記』が書かれており、此の頃には漢字と平仮名を巧みに使った和漢混淆文(わかんこんこうぶん)が成立、今以て使われている。

名字の成り立ち

髙(高)を含む姓で、最も多いのが、髙橋姓(高橋姓)。
渓谷にかかる吊り橋周辺の地名姓ゆえ、全国各地に発祥があり、遡っても高低の意しか無い。

同じく橋の付く地名姓でも、橋本や大橋などの場合、対象が川面の橋となる。
渡し船だったものが橋になる、それは川の流れに耐えられる橋脚技術が確立されて以降であり、歴史的には新しい。

『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』(815年)に、氏姓制度(しせいせいど)制定時(684年)、天武天皇により、高橋村なる地名より「高橋」(くちだか)姓が名付けられたとあり、写本では「高橋」(くちだか)であるが、『万葉集』(759年)では、同じ地名として「髙橋」(はしごだか)でも記されている。

明治まで、論語(儒教)は広く使われた学問。そのまま漢字を変えなければ、写本は「髙」(はしごだか)が使われていただろう。しかし、写本は変質している可能性がある。

もし、髙井姓(高井姓)が、髙橋姓(高橋姓)と同じような成り立ちならば、高い所にある井戸となる。

だが、見上げるような高い井戸とは如何なるものか。高杉姓、或いは石井姓など、読んで字の如くで、得心がいくが、場所として高い所に在るならば、むしろ源泉に近く「泉」や「湧き水」であり、井戸と呼ぶだろうか。水は低きに流れるもので、井戸を掘るなら水脈を目指して下に掘る。

高低よりも、「高」が本来持つ「祓い清める」意ならば、清める水を汲むための井戸か。それとも「天の井戸」で雨乞いか。

もっと古く、口伝、言霊の「たかい」が先にあるならば、「他界」であり、其の当て字。
ならば「黄泉の国」や「隠り世」の入口なのだろうか。

「高井」(くちだか)が、記され判ずるのも、前述の『新撰姓氏録』(815年)。

此処に、「高井造(たかいのみやつこ)、山城国(やましろのくに=京都府南部)、高麗国主 鄒牟王 二十世孫、汝安祁王(じょあんきおう)より出づ」と、ある。

高句麗滅亡(716年)後、亡命してきた高麗国王の末裔として帰化した、高麗氏、狛氏、高氏、長背氏、難波氏、後部氏、高井氏の流れ。

東北に居た古代民族も、出自を遡れば大陸、高句麗(こうくり、紀元前37年 - 668年)の可能性もあり、「高井」(くちだか)の地名で最も古いとされる「高井郡」や「下高井郡」も長野県には残っている。

ゆえに、「高麗(こうらい)」や「高(こう)」と発音する苗字は、高句麗滅亡後に作られたと思われるが、発音の異なる「高井(たかい)」は、既に地名や苗字が存在しており、割り当てられた可能性がある。

663年、白村江の戦い(はくすきのえのたたかい、はくそんこうのたたかい)で、唐と新羅連合軍が半島を制圧した際、半島の百済(くだら)を救うため、此の国からも水軍を送っているのだが、壊滅。

其の後、百済人たちを亡命させるために尽力、亡国の百済人に国土を開放して、当時の文部大臣にあたる役職についた百済の貴族、鬼室集斯(きしつしゅうし)の墓も、近江に残っている。

半島で、最も日本に近い伽耶(かや)には、日本からの移住も多かったと伝わるが、そこに居た人々も、避難してきただろう。

古代に半島や大陸から渡ってきた倭国の人々、そして、半島との自由な交流時代、さらに、唐と新羅連合軍が半島を支配した事により、日本を守るために国家体制を築こうとした倭国と、高句麗、百済、伽耶(かや)の人々という図。

半島が侵略された事により、民族意識が高まり、天皇なる概念が作られ、律令制度も設け、『古事記』や『日本書紀』が編纂されて、唐との関係も保ちつつ文化を輸入、大陸からの侵略に備え始めると。

厩戸皇子(聖徳太子)の仏教の師も、高句麗から595年に渡来した僧であり、610年に顔料や紙墨を伝えたのも、同じく高句麗から渡来した僧とされている。

古代文明開化時に、物部氏と対立した蘇我氏も、遺跡後からして新羅からの渡来人だという。

勿論、半島であっても、古くは ペルシャ、イスラエル、ローマ等からの民族も含まれ、例えば、新羅(紀元356年- 935年)は、当初、半島の他国と言葉が通じなかったとされており、古代ローマ人との説もある。

此方の根源

九州や出雲、そして近畿は、大陸からの海路があり、古代から栄えるが、大和朝廷が政治の中心となった頃、東北は「道の奥」(みちのく)と呼ばれ、都からすれば、関東さえも田舎であった。
ゆえに、関東で神官の家系となると、東北(長野)系は無いと思われる。

以下は、未整理、調査中の箇条書きに御座います。

平家方では元号を使用せず、寿永を引き続き使用していた時代の元号、元暦年間(1184年-1185年)に創建された、宮尾神社(住吉神社琴平神社合社)あり、ここで「髙井」(はしごだか)が記されている。

宮司は、愛敬山東福院。
上恩方村字関場の本山派修験僧坊であり、文治年間(1185年-1189年)から、高留の住吉・琴平の両神社の別当を兼ねる名門、所謂 地域の顔役。
東福院は、髙井家が代々先達を務め、現存する宮尾神社宮司も、髙井姓であった。

群馬県高崎市、市重要文化財として、北条氏康の署名がある高井家文書あり。
其の地を治めた権力者からの書状が19通。上杉憲當(憲政)、小田原城主 北条氏康、最後の和田城主 和田信業、武田勝頼の重臣 跡部勝資、北条氏邦(氏康の子)・氏直(氏康の孫)と、戦国の世ゆえ、寺社などそのまま権力が移り変わる。

下総相馬氏二十一代当主、相馬治胤(そうまはるたね、1541-1602)は、高井孫三郎であり、下総国相馬郡高井村は、茨城県取手市下高井として残る。

1566年、相馬整胤(そうままさたね)亡き後、姉妹の夫である高井孫三郎(相馬孫三郎治胤)が、宗家の家督を相続。

1590年、豊臣秀吉が天下取りの大仕上げとして、北条氏の小田原城を包囲した小田原攻め(小田原の役)では、弟 高井胤永と小田原城へ籠城している。

進雄神社(すさのおじんじゃ)は、江戸時代まで牛頭天王(ごずてんのう)を祭る「天王社」と呼ばれ、柴崎町髙井家が代々神職を継いでいる。

天正十八年六月(1590年)。
北条氏照(北条氏康の三男)の小田原入城により、主を失った八王子城では軍議が行われ、そこに案下東福院(東福院は代々髙井家が務める)の記述あり。

江戸幕府にも、1817年から3年、伊勢奉行を努め、1820年から10年、大阪東町奉行を務めた、高井実徳(たかいさねのり)なる人物あり。
文政三年(1820年)、大阪東町奉行として赴任。周囲に遠慮せず正しい事を行う方針であり、大塩平八郎の良き理解者となる。役人の不正を許さずの大塩平八郎『三大功績』は、高井実徳の後ろ盾あってこそだったとされ、高井実徳の転勤と共に大塩も与力を辞している。

髙井一山(東福院)。
増田蔵六門下 天然理心流剣客 文久元年(1861年)隠居。

髙井丹吾(1840年-)。
宮内と命名された嫡男で、明治廃仏により、最後となる東福院。
山本満次郎門下 天然理心流剣客。
北辰一刀流は、お上品過ぎて満足できず、荒っぽい天然理心流を好んだらしい。
上洛して、壬生の「新選組」屯所を訪れ入隊を希望したが、長男故をもって断られたとのこと。
山岡鉄舟により、秀勝髙井先生寿碑あり。

髙井宮吉(1897年-1972年 中村雨紅)。
丹吾の子。次男のため神職継がず、詩人・童謡作家 野口雨情に師事。中村雨紅を名乗る。
代表作『夕焼小焼』は、JR八王子駅発車メロディーに採用。

一方、品川、三谷八幡神社の系譜。
現 高井銕夫宮司。先代に嫡男できず、養子。
品川区剣道連盟会長。東京至誠館道場主席師範。宝蔵院流高田派槍術小倉系伝承。裏千家茶道教授。剣道範士八段。刀道範士八段。

高井戸は、本来、高井堂と呼ばれ、地域に親しまれた「お不動さん」があった場所。
現在は、団地になっていて、三谷八幡神社宮司 祖先15代の墓のみ残る。

明治の廃仏毀釈の際(神仏分離令・大教宣布)、寺か神社の選択を迫られ、神社を選択した事で、結果的に没落。土地もすべて売り払うことになり、高井堂の名前だけが残って、いつの間にか高井戸となった。

今の東京都知事にあたる初代の方(東京都長官?)より、墓だけは残してよいとの証文が、移転された現在の三谷八幡神社に残っており、杉並区が史跡に指定する方向で調査中らしい。

群馬、高崎神社の髙井浄御宮司は、神官の最高位を持つ方との事。
祖父の姉が、関東大震災後、群馬県前橋市の魚屋へ嫁いだ事から、群馬あたりに何らかの縁者がいたものと推測。
群馬には、前述の進雄神社もあるため、近々、訪ねてみる予定。

最終更新(加筆訂正): 2012年09月12日 髙井真一