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尋ね人: 髙井文之進の縁者

祖父の回顧録

亡き祖父が、生前、親族を探していたと回顧録で知り、30数年経過と遅蒔きながら、意志を継ぐ所存。
家紋、姓の由来も知らぬ由。

祖父の回顧録にて、高祖父までの名は判明。

  • 四親等(高祖父) 髙井文之進。明治時代の神社宮司。(関東周辺)
  • 三親等(曽祖父) 髙井鉄三郎。 関東大震災により横浜で消息不明。
  • 二親等(祖父 1915年-1976年)。 関東大震災により、8歳で天涯孤独。
  • 一親等(親父 1939年-)。
  • 捜索者(本人 1970年-) 髙井真一

髙井鉄三郎については、祖父の父ゆえ、さらに子細が記される。
髙井文之進の子であり、関東の出、代々神職の家系生まれ。
中村家の神社(山口県美祢?)に、取り子取り嫁として後継となったとある。

鉄三郎という名からして、三男と推測。
長男が、髙井文之進(高祖父)の跡継ぎとなったかと。

1915年(大正4年)、鉄三郎の妻は、第四子(祖父)の出産後、山口県宇部市にて死亡。
当時、呉服屋だか料理屋をしていたらしいが、何故、宇部市に居たか不明。

帝国主義の時代。 強制改宗のための国家神道。 その準備たる神社合祀令。
その影響により、跡を継いだ神社は、強制的に何処かに合祀され、職を失ったのでは?と推測。

また、当時の宇部は、炭鉱からの石炭を運ぶ鉄道が張り巡らされている全盛期。
職を求め転居したと考えるのが妥当。

1923年(大正12年)、祖父は生まれてすぐ、宇部の知人に里子として預けられ助かった。
然れども、残る家族全員、関東大震災時、横浜に居て消息不明となる。

宇部は、炭鉱のためだけに、即興で出来たような街。

戦国時代、大内から毛利へ支配が移り、毛利は関ヶ原以降、外様大名として家臣共々生き残るため、埋め立て開作を行っており、宇部の瀬戸内側、多くの土地も該当。 其れまで海底ゆえ、歴史の舞台には登場しない。

長州藩 首席家老 福原越後(福原元僴)が、宇部福原氏の当主であり、蛤御門の変(禁門の変)の後、責任を取らされ、岩国にて切腹...くらいか。 ともかく炭鉱から始まる。

祖父は、沖ノ山炭坑長屋、炭鉱夫 三島家の子として世話になり、幼い頃から働く。 そして、小学時代に、所用で訪れた役場にて、他家の子である出自や実父母の死を知る。

数十年後、姉である幸子の手掛かりを掴むが、群馬県前橋市の魚屋へ嫁ぎ、既に病死していた。

震災で、ひとり生き残った祖父の姉 幸子は、横浜あたりを1年かけ、父(鉄三郎)や家族を探したものの見つからずじまい。

その後、宇部の弟(祖父)を訪ね、頭を摩って、ラムネを飲ませてくれたらしいが、祖父は初対面で事情もわからず、姉もすぐ上京していたらしい。

祖父は、石炭を運搬する会社を起業。 現在も残る。 会社という、大きな屋根さえあれば、家族や兄弟が仕事に困らず、共に暮らせると考えてのことと記されている。

戦後の復興期、会社は大きくなったが、祖父の親族など血縁者は見つからず、1976年(昭和51年)、癌で亡くなる。 享年61。 此方 01(髙井真一)、まだ幼稚園に通っていた頃の話。

そして、当世。 祖父の回顧録をもとに再試行中。

今以て、髙井家(高井家)が代々宮司(先達)を務める神社は幾つか存在。

東京、八王子の住吉神社琴平神社合社(宮尾神社)は、童謡『夕焼け小焼け』の作詞者、中村雨紅(髙井宮吉)の実家だが、宮司に伺ったところ、名の付け方等から系譜は異なると判明。
# 初めて親戚以外の髙井姓の方と名刺交換。

もう一つ、東京にある、品川の三谷八幡神社(高井戸の由来)も、系譜が異なると判明。

残る群馬、高崎神社や進雄神社も訪ねる予定。

髙井文之進の直系子孫の方など、何か情報があれば連絡を賜りたく、宜しくお願い申し上げ候。

髙井(高井)(氏、家、名字、苗字)の由来

此方 01(髙井真一)、生業は絵描きなれど、歴史・哲学・宗教学・民俗学などは、すべてに通ずる処あり、興味は尽きませぬ。
ゆえに、髙井姓の由来も、同時に調査致し候。

訂正すべき誤り、或いは、ご意見、ご感想など御座居ましたら、遠慮なく 打電 下さい。

髙井姓(高井姓)は、関東では珍しい姓。 源平の時代以前と思われるが、関東へ下った髙井姓は、辿ると大きく3系統。

そこから、高井城や高井村などがあり、さらにその地名をとった地名姓としても残る。

地名で有名な、高井戸についての詳細は後述す。 他、長野県にも、上高井郡などあり。

「髙井」(はしごだか)、「高井」(くちだか)の違いだが、江戸期まで、綿々と姓として使っていた家系は、明治維新後も、そのまま「髙井」(はしごだか)を押し通そうとしたと思われる。

明治維新直後は、関連する様々な法令が実施され、さらに活版印刷への移行期でもあり、何らかの意志がなければ「髙井」(はしごだか)を姓で残せなかったらしく、改めて尋ねると昔は「髙井」(はしごだか)だったらしいと云う家さえある。

  • 1870年(明治3年)9月19日の平民姓許可令。
  • 1871年(明治4年)8月29日の廃藩置県。
  • 1875年(明治8年)2月13日の平民姓必称義務令。

旧字体(古い漢字)と混同されがちだが、其れは第二次世界大戦前後に行われた「国語改革」に於いて、字体が簡素化された「当用漢字」であったり、「簡易慣用字体」に対して使われる表現ゆえ、二千年のタイムラグがあり、一線を画す。

「高」(くちだか)は、二千年以上前の大陸、秦の始皇帝の時代から存在しており、高低の形容詞としてなど、広く一般に使われてきた。

廃藩置県や国語改革で、由来に関わらず、地名で使われる漢字などは、すべて「高」(くちだか)となり、現在の地図や住所からは見当たらない。

活版印刷時代には迷惑な存在で、隙あらば、「高」(くちだか)にしてしまわれたり、役所の戸籍などで正しい記載を求めても、「髙」(はしごだか)部分だけ手書きで上から貼ってあったりと、様々な対応。

ゆえに、この混沌とした状態に入って以降の印刷資料やデジタルデータは、「髙井」(はしごだか)と「高井」(くちだか)が正しく意識して使われているのか、常に疑問が残る。

今以て、「髙」(はしごだか)は、「常用漢字」「人名用漢字」「人名用漢字許容字体」でもなく、既存の姓以外には使用できない。 つまり、新たには作れない。

2010年に至っても、JISコードの標準割り当てすら無い。

ワープロ時代は、記号等と同じく、表示できない場合さえある、メーカー別「拡張文字」扱い。
パソコン時代も機種依存文字であり、NECとIBMで割り当てが異なっていたため、未だ、92区と118区に重複して存在する始末。

ネットでも、Unicode(UTF-8) が普及するまでは、「髙井」(はしごだか)は使えず、大手銀行ネットサービスも口座開設で文字化けする状態。

ゆえに、パソコンや携帯端末など、環境により表示できないこともあるため、此度の記事を書くまでは、「高井真一」(くちだか)で済ませてきた次第。

ネット(デジタル)が生業ゆえ、ウェブサイト、メールのやり取り、書籍での表記や映画のクレジット等に至るまで、「高井真一」(くちだか)の誤った表記を使っていたのだが、そろそろ頃合いかと、「髙井真一」(はしごだか)の表記にて統一してみようかと。

サーバ側CMS内部処理や書き出すXHTMLもUnicodeで完結させ、ドキュメント宣言しているものの、すべての環境で表示出来ているか否か。

もし、貴方の環境で表示できていない場合は、打電 いただけると幸せます。

2010年7月現在、Googleのインデックス状況を分析すると、「高井」(くちだか)は、2文字で単語と扱われるのに対して、「髙井」(はしごだか)では、「髙」と「井」が別々の単語とみなされ、キーワードとされる問題があると確認。

「髙井真一」(はしごだか)では、「髙」(はしごだか)・「真一」・「井真」・「井」の優先順で、クロール時にキーワードとされ、「髙井」(はしごだか)はキーワードと認識される事が無い。

あぁ、なんたろうことか。 Googleには、単語として認識されない苗字なのだ。 例えば、カタカナで「セリフ」と検索しても、「台詞」まで検索される賢さなのに。

── 閑話休題。

「高」と云う漢字の成り立ちは、大地の上に立った建物の象形。 「京」の象形に、口(祭具)の追加で、城門から悪霊などが入り込まぬよう祓い清める意。

さらに後、例えば、「稿」。 原稿などでも使われる漢字だが、木が枯れて白くなる意を持たすために「高」が使われる。 他の漢字も同様、「白い」や「滑らか」の意を含ませるために使われ、その根幹にある意味は、そこまで白骨化した死者。

「高」(くちだか)が正字で、「髙」(はしごだか)が俗字(異体字)。

象形、甲骨、金文、大篆、小篆 と変遷するが、「高」(くちだか)の形となるのは小篆から。

小篆は、秦の始皇帝が中国を統一した際(紀元前221年)に整理系統化されたため、紀元前221年頃から現在まで、俗字(異体字)として残り続けた事となる。

「井」は、井戸。 泉や地下水を貯めた水汲み場以外、語ることはないが、古来より井戸は「黄泉の入り口」ともされてる事は脳裏にちらつく。

井戸の神とされるは、罔象女神(みずはのめのかみ)。 水神の意味をもつ「みずは」と云う言霊だが、「みずは」とは、溝の端(はた)でもある。

伊邪那美命(いざなみのみこと)が、軻遇突智(かぐつち)を生み、焼け死ぬ際に苦しみで流した尿(ゆばり)より生まれたのが、罔象女神。

墓穴も井戸も、四方を壁に囲まれた深い穴。 入ると出られない恐怖感、どちらも黄泉の国(あの世、隠り世)への入口とされる。 ゆえに、罔象女神は、黄泉への境界の神と。

実際にもあったのであろうが、井戸に落ちて死ぬ、または異世界へと云う物語も多く在る。

秦の始皇帝(紀元前259年-紀元前210年)頃に書かれたとされる儒教の経書『周礼(しゅうらい)』に、「方相氏(ほうそうし)は、熊の皮を着て、目が四つある面を付け、戈(ほこ)を持って塚穴(つかあな=墓穴)に入り、四隅をうって方良(ほうりょう)を駆逐する。」と、ある。

これは大陸から日本へも伝わり行われていたが、「方相氏が方良を祓う」は、「陰陽師が魍魎(もうりょう)を祓う」と置き換えられた。

平安初期から現代まで行われている節分。 原初形態に近い形で残るのは、京都 吉田神社の追儺式。 そこでは、方相氏の名がそのまま残っているが、鬼神として悪鬼を祓う。

陰陽師も鬼を祓うとされているが、時の権力者に害なす者は、生死に関わらず、いつしか総じて鬼と呼ばれる事となる。

大陸での「鬼」は白骨化して間もない死体の象形で、「魂」なる漢字からもわかるが、悪いものとは定義されていない。

このような差異は、大陸の文字文化に対して、古代日本が口伝文化であり、言霊の国であった事に起因する。

具体的に、「仁徳天皇(にんとくてんのう)」は、大陸との外交用の後付けで、国内では、もっぱら「おおさざきのみこと」であり、古墳にも文字として何も残っていないため確証がない。

さらに、「みとこ」単体でとらえると、「御言」との意味にもなるといった具合で、意味が深い。

また、文字とされることは、言霊を封じるとも考えられていた。 平安時代の陰陽師では、名を知れば、其れを依代として呪をかけることも可能と。 映画『千と千尋の神隠し』にて、名前で記憶を封じたり、紙の人形を操る、陰陽師的な術が描かれている。

「天皇」なる漢字も、権力争いで国を二分した兄弟喧嘩「壬申の乱(じんしんのらん)」(672年)の勝者により誕生した天武天皇(てんむてんのう)から使われたが、それまでは大君(おおきみ)であり、対大陸用として、道教の最高神格の漢字を利用したもの。

それは、国内統一により、大陸からの侵略に備えるための国家戦略でもあった。

各豪族の歴史文化などの口伝を手繰り寄せてまとめ、権力を集中させ、天皇なる新たな概念を定義する根拠とする『古事記』(完成712年)編纂も開始される。

其の流れで、何十年もかけ完成した『日本書紀』(720年)であるが、寄せ集めゆえに辻褄の合わない部分もあり、『隋書倭国伝』(600年代)からすると、十七条の憲法、聖徳太子、大化の改新なる暗殺事件の顛末などは、捏造だとわかる。

当時の権力者の思惑や、大宝律令(701年~)国家体制の権威付けに、利用されたわけだ。

大化の改新で活躍する中臣鎌足(なかとみのかまたり)は有名だが、後に藤原と云う姓を作り、藤原鎌足と名乗って、藤原の祖となったのは知られていない。 繁栄を極める、藤家姓(藤原・佐藤・伊藤・加藤・斎藤、後藤、近藤、斉藤、遠藤、工藤、安藤、内藤、須藤、...)の祖なのだ。

其の藤原鎌足の次男、藤原不比等が大宝律令にも、『日本書紀』の編纂にも関与しているのだから察しがつく。

歴史とは、勝者、或いは、強者の視点で都合よく書かれるが常。 視点を変え、削除された歴史が記される『先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)』を読み解くことも肝要と考えるのが私見であるが、これは別の物語である。

正確な歴史が後世に残らない口伝文化ではあるが、聖なるものを形にしない思想は、この国独特ではなく、大陸の窓口だった中国以外、古代では珍しくない。

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、直線的歴史観で、同じ根源を持つ西洋宗教でも、古くは聖なる名を口にするのは禁忌であった。

古代ヘブライ語の「アドナイ」も、「私はある」の意でしかなく、今以て、神なる存在の名はわかっていない。 『死海文書(しかいもんじょ)』でも、読むことが出来ないテトラグラマトン(神聖四文字)で記されている。

そして、現在に至るも、キリスト教のカトリックとプロテスタントを分かつ壁、偶像を崇拝を認めるか否かとしても残っている。

また、お経によくある「如是我聞(にょぜがもん)」も、「ブッダからこのように聞いた」という意で、聖なる教えは口伝のみとしたゆえの表現。 仏像も、ブッダの死後500年ほど控えられていた。

対して、甲骨文字が生まれた中国では、言霊よりも文字の方にこそ、聖なるものが宿るとされた。 字を供養するための、専用の焼却炉が、今以て残っている程。

これは、聖なるものは自ずと形に現れると云う概念からで、形や並びを見る占いの思想にも通ずる。 映画『もののけ姫』で、ヒイさまが、アシタカの道を占うような所作。

日本では、文明としての仏教伝来時に、この衝突があり、日本最初の僧侶である善信尼(ぜんしんに)は、少女にもかかわらず無残に殺され、豪族同士の戦も繰り返された。

古来よりある八百万の神と軍事が後ろ盾の物部氏、対するは、仏教や新しい文明も受け入れるべきとする蘇我氏。 587年、物部守屋は蘇我馬子に敗れる。

飛鳥寺完成が、漢字を受け入れた区切りとすると、609年となる。 以降、明治維新後の廃仏毀釈(神仏分離令)まで、和を以て貴しとなす、神仏習合が続く。

さりとて、漢字が、簡単に口伝文化に融合できたわけではない。

中国語に一度翻訳して、その漢字を使う方法は、東南アジア諸国でも見られるが、口伝といえど、既に独自に体系化された日本文化は存在していたため、受け入れてからも問題は山積。

方良(ほうりょう)=魍魎(もうりょう)など、似た意味を持つ言霊への当て字。 発音や意味に合わせた漢字で、字順は中国語のままで、表記と読み順が異なるもの。 そして、日本の読みと順番に揃える方法。 さらには、漢字の意味は無視して一音一漢字で当て字とする方法。

後世、同じ一族でも別の姓を名乗る場合があったり、既にある地名は縁起が悪いからと、同じ読みの別漢字に変えたりもされている。

例えば、鞍馬天狗の「鞍馬(くらま)」は、元々「暗部(くらぶ)」と、暗い場所の由来で呼ばれていた。

平仮名も生まれる前であり、読み書き統一の苦難や曖昧さが、しばし続いた訳だ。

『続日本後紀(しょくにほんこうき)』(869年)には、「日本(ひのもと)の 倭(やまと)の国は 言霊(ことだま)の 幸(さきわ)う国ぞ 此の国の 本(もと)つ詞(ことば)に逐(お)い依(より)て 唐(大陸)の詞(ことば)を仮(か)らず」とある。

勿論、原文は仕方なく漢文で記されているが、平安貴族が、本来の日本文化を忘れ、政治まで中国文化の真似しかできなくなっている事態を嘆いている。

当時の大陸は、唐(とう)であり、定期的に遣唐使が送られ外交を行っていたのだが、東アジアの共通語は中国語であったため、漢文知識が日本でも重要視されていた。

700年までに万葉仮名は成立しており、800年代後期には平仮名も存在していたが、女性の教養として、和歌の恋文を書くために用いられていた。

893年より、参議(国務大臣相当)になっていたのは、菅原道真。

此の頃になると、律令制度も限界となっており、民衆は人頭税に耐えかね、大陸側の半島、新羅(しらぎ・しんら)の海賊に、対馬や九州を襲撃され、破綻寸前の財政を国防費が圧迫していた。

そこで、唐から最新知識を得るため、57年ぶりの遣唐使計画が持ち上がる。

しかし、唐から届いた知らせは、唐で大規模な反乱(黄巣の乱)があり、十余年の長きにわたり戦乱が続いており、衰退も著しく得られるものが無いとの内容だった。

そして、300年続いた遣唐使は廃止され、律令制度も捨てることになる。

平仮名が公の文字として初めて使われ、天皇に奉上されたのは『古今和歌集』(905年)。

その序文に、「やまとうたは ひとのこころを たねとして よろずのことのはとぞ なれりける」とある。 漢字だけでない和歌は、人の心を種として、よろずの意味を持たせた言葉に成り得ると。

例えば、「あきちかう」は、「秋が近い」と云う意と、「あ桔梗(ききょう)」の意を合わせ持たせることが可能と云う具合。

これは、中国文化依存からの独立、国風文化の始まりである。 寝殿造り等の建築様式、十二単などの着物、中国を真似た律令制度から、政治制度や思想も独自の歩みを始める。

陰陽道も独自発展を遂げるが、仏滅(本来は物滅)等の日柄、年中行事(七草がゆ、節分、ひな祭り、端午の節句、七夕、七五三)と、現代まで残るのに一役かったのは、『桃太郎』などの民話だ。

論理的な漢文より、感情が表現できる平仮名を使うことで、世界初の長編小説『源氏物語』(1001年)や『枕草子』など、世界に誇れる平仮名文学も生まれた。

鎌倉時代(1185年頃-1333年)には、『方丈記』が書かれており、此の頃には漢字と平仮名を巧みに使った和漢混淆文(わかんこんこうぶん)が成立して、今以て使われている。

明治以降は、逆に西洋文化の概念を的確な漢字に置き換え、本家 大陸に漢字を輸出している訳だが、漢字の話も、また別の物語である。

先ず以て、『古事記』(712年)、『日本書紀』(720年)等から始り、漢字が生来持つ意味や属性は、輸入された後、混沌とした過程を経て、変質した可能性もある訳だ。

髙(高)を含む姓で、最も多いのが、髙橋姓(高橋姓)。 渓谷にかかる吊り橋がある地域の地名姓ゆえ、全国各地にあり、遡っても高低の意しか無い。

同じく橋の付く地名姓でも、橋本や大橋などの場合、対象が川面の橋。 渡し船だったものが、川の流れに耐えられる橋脚の技術確立して橋が作られるようになって以降であり、歴史的に新しい。

『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』(815年)に、氏姓制度(しせいせいど)制定時(684年)、天武天皇により、高橋村なる地名より「高橋」(くちだか)姓が名付けられたとあり、写本を見る限りでは、日本初は「高橋」(くちだか)のようだ。

その少し前、『万葉集』(759年)では、地名として「髙橋」(はしごだか)でも記されている。

和歌では、そちらの方が粋だったのだろうか。 それとも、『新撰姓氏録』など正式な文章で使われていた漢文は、正字である「高」(くちだか)で統一されていたのだろうか。

明治まで、儒教は広く使われた学問。 紀元前の写本であれば「髙」(はしごだか)が使われていただろう。 其れを敢えて使う、流行でもあったのだろうか。

論語の、子曰(しのたまわく)の類だったり、天皇のことを大君(おおきみ)と、古式ゆかしく口にすることもあるように。 或いは、易学的に画数で吉凶をと云う類か。

「高橋」(くちだか)は、日本の名字数で、第3位と、すこぶる多い。
その中で、「髙橋」(はしごだか)は、657世帯に1世帯の割合。

「高井」(くちだか)では、390位前後。
その中で、「髙井」(はしごだか)は、262世帯に1世帯の割合。

髙井姓(高井姓)が、髙橋姓(高橋姓)と同じような成り立ちならば、高い所にある井戸。
高木姓、或いは石井姓など、読んで字の如くで、得心が行く。

然しながら、見上げるような高い井戸とは如何なるものか。

場所で、高い所に在るならば、むしろ源泉に近く、泉や湧き水であり、果たして井戸と呼ぶだろうか。
水は低きに流れるもの。 井戸を掘るなら、水脈を目指して下に掘る。

高低よりも、「高」が本来持つ「祓い清める意」ならば、清める水を汲むための井戸か。

もっと古く、口伝、言霊として「たかい」が先にあるならば、「他界」ともなり、其の当て字。
ならば、天にでもある、隠り世の入口なのだろうか。

「高井」(くちだか)が、記され判ずるのは、前述の『新撰姓氏録』(815年)。
此処に、「高井造(たかいのみやつこ)、山城国(やましろのくに、京都府南部)、高麗国主 鄒牟王 二十世孫、汝安祁王(じょあんきおう)より出づ」とある。

高句麗滅亡後(716年)、亡命してきた高麗国王の末裔として、帰化した「高麗氏」「狛氏」「高氏」「長背氏」「難波氏」「後部氏」「高井氏」のひとつ。

東北の古代民族も、遡れば出自は高句麗(こうくり、紀元前37年 - 668年)とも云え、「高井」(くちだか)の地名で、最も古いとされる、高井郡や下高井郡も、長野県に残っている。

半島の経由であっても、大陸、ペルシャ、イスラエル、ローマ等からの民族も含まれ、例えば、新羅(紀元356年- 935年)は、600-700年頃に半島をほぼ統一しているが、当初、半島の他国と言葉が通じなかったともされ、蘇我氏も新羅から渡来している。

文化的にも、例えば、大陸から節分が伝わったのは古いが、豆を撒く風習はなかった。
前述のように、節分の原初形態である追儺式(ついなしき)では、方相氏(鬼神)が、矛で悪鬼を祓い、神官達が、桃の弓と葦の矢で追い祓う。

現代の形となり、初めて書物に記されるのは、『臥雲日件録(がうんにっけんろく)』と云う、室町時代の僧の日記。

豆を使ったのは、宇多天皇(867- 931)の頃からともされるが、所作に於いて、古代ローマのレムリア祭と共通点が多い。 レムリアも死霊の意味で、鬼が本来持つ魍魎、大陸の方良と同じ性質。

本題である、「髙井」(はしごだか)が、記され判ずるのは、源氏と平家の争乱時代以降。

平家方では元号を使用せず、寿永を引き続き使用していた時代の元号、元暦年間(1184年-1185年)に創建された、宮尾神社(住吉神社琴平神社合社)あり、ここで「髙井」(はしごだか)が記される。

宮司は愛敬山東福院。
上恩方村字関場の本山派修験僧坊であり、文治年間(1185年-1189年)から、高留の住吉・琴平の両神社の別当を兼ねる名門、所謂 地域の顔役。
東福院は、髙井家が代々先達を務め、現存する宮尾神社宮司も、髙井姓。

群馬県高崎市、市重要文化財として、北条氏康の署名がある高井家文書あり。
其の地を治めた権力者からの書状が19通。 上杉憲當(憲政)、小田原城主 北条氏康、最後の和田城主 和田信業、武田勝頼の重臣 跡部勝資、北条氏邦(氏康の子)・氏直(氏康の孫)と、戦国の世ゆえ、寺社などそのまま権力が移り変わる。

進雄神社(すさのおじんじゃ)は、江戸時代まで牛頭天王(ごずてんのう)を祭る「天王社」と呼ばれ、柴崎町髙井家が代々神職を継いでいる。

天正十八年六月(1590年)。
北条氏照(北条氏康の三男)の小田原入城により、主を失った八王子城では軍議が行われ、そこに案下東福院の記述あり。

髙井一山(東福院)。
増田蔵六門下 天然理心流剣客 文久元年(1861年)隠居。

髙井丹吾(1840年-)。
宮内と命名された嫡男で、明治廃仏により、最後となる東福院。
山本満次郎門下 天然理心流剣客。
北辰一刀流は、お上品過ぎて満足できず、荒っぽい天然理心流を好んだらしい。
上洛して、壬生の「新選組」屯所を訪れ入隊を希望したが、長男故をもって断られたとのこと。
山岡鉄舟により、秀勝髙井先生寿碑あり。

髙井宮吉(1897年-1972年 中村雨紅)。
丹吾の子。 次男のため神職継がず、詩人・童謡作家 野口雨情に師事。 中村雨紅を名乗る。
代表作『夕焼小焼』は、JR八王子駅発車メロディーに採用。

一方、品川、三谷八幡神社の系譜。
現 高井銕夫宮司。 先代に嫡男できず、養子。
品川区剣道連盟会長。 東京至誠館道場主席師範。 宝蔵院流高田派槍術小倉系伝承。 裏千家茶道教授。 剣道範士八段。 刀道範士八段。

高井戸は、本来、高井堂と呼ばれ、地域に親しまれた「お不動さん」があった場所。
現在は、団地になっていて、三谷八幡神社宮司 祖先15代の墓のみ残る。

明治の廃仏毀釈の際(神仏分離令・大教宣布)、寺か神社の選択を迫られ、神社を選択した事で、結果的に没落。 土地もすべて売り払うことになり、高井堂の名前だけが残って、いつの間にか高井戸となった。

東京都知事初代による、墓だけは残してよいとの証文が、移転された現在の三谷八幡神社に残っており、杉並区が史跡に指定する方向で調査中と聞く。
※ 関係する皆様、三谷八幡神社 高井銕夫宮司もご高齢ゆえ、助力いただけると倖せます。

群馬、高崎神社の髙井浄御宮司は、神官の最高位を持つ方との事。
祖父の姉が、関東大震災後、群馬県前橋市の魚屋へ嫁いだ事から、群馬あたりに何らかの縁者がいたものと推測。
群馬には、前述の進雄神社もあるため、近々、訪ねてみる予定。

最終更新: 2010年09月02日 01